ボンガイチニョの日常世界

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【映画】チェコアニメ!十三シアターセブンにてシュヴァンクマイエルの初期短編をみた!

こんにちは。
ボンガイチニョです。

 

今日は授業時間の合間をぬって、十三のシアターセブンにて4/29〜5/12まで開催された「This is チェコアニメ!OSAKA~GWチェコアニメ・ゴールデンセレクション〜」に行ってきました。


チェコのアニメーションの多くはその芸術性が高く評価されていますが、なかでも僕はシュヴァンクマイエルがお気に入りなんです。
やっと時間が取れたのでチェコアニメを観に行こう!と思って公式サイトを調べてみると、今日は「The day of シュヴァンクマイエル」でした!
運命でしょうか?

 

 


シュヴァンクマイエルって誰?

 


シュヴァンクマイエルプラハ生まれのシュルレアリスムの芸術家・アニメーション作家・映画監督です。「戦闘的シュルレアリスム」というスローガン?を掲げており、政治的主張を作品に織り込んでいます。
しかし、残念なことに僕はチェコの歴史や政治に詳しくなく、加えてあまり鑑賞眼がよい方ではないのでシュヴァンクマイエルが作品に込めた政治的主張を読み取ることができません。解説をみて「ふーん」という程度でしょうか笑。

 


本日鑑賞した作品はこちら!

 


本日シアターセブンで上映されたのは
1.シュヴァルツェヴァルト氏とエドガル氏の最後のトリック(1964年/12分)
2.エトセトラ(1966年/7分)
3.庭園(1968年/17分)
4.コストニツェ(1970年/10分)
5.オトラントの城(1973年-1979年/18分)
6.アッシャー家の崩壊(1980年/16分)
の6本です。
『アリス』や『ファウスト』、『悦楽共犯者』などといった1980年代後半からの有名長編ではなく、初期短編集という感じです。
記憶が正しければ『シュヴァルツェヴァルト氏とエドガル氏の最後のトリック』はシュヴァンクマイエルのアニメーション映画としては処女作にあたる作品だったと思います。
アッシャー家の崩壊はエドガー・アラン・ポー原作ですかね。

 

前置きはここらへんにしておいて、レビューに移りたいと思います。

 


シアターセブン、なかなかよいミニシアターでした

 


まずシアターセブンの感想から笑
シアターセブンは阪急の十三駅から歩いて3分ほどのところにあるのですが、第七藝術劇場と同じビルにありました。
セブンとナナゲイということで関連はあるだろうとは思ってたのですがまさか同じビルとは…。
待合スペースも綺麗で、ビジネスホテルのワンフロアのような感じでした。
劇場もこじんまりしていましたがミニシアターらしくよい感じでした。
ただ椅子の間隔が狭くて座りごごちは微妙でした笑

 

 


シュヴァンクマイエルの短編集の感想

 

『シュヴァルツェヴァルト氏とエドガル氏の最後のトリック』


シュヴァンクマイエル初製作の映画でしたがいきなりすごい作品でした笑
印象に残ったのはシュヴァルツェヴァルト氏とエドガル氏の対話が最初から最後まで噛み合わないことです。
最初は、片方が相手に働きかけるともう片方は拒絶する、という対話を繰り返します。
途中からは相手が披露したトリックに対して賞賛の握手を求めるのですが乱暴な握手で相手は嫌がる、という一連の流れを繰り返します。
その握手の仕方がトリックの回が増すごとにどんどん乱暴になっていき、最後のトリックの時にはお互いバラバラになってしまう、というものです。
この対話はシュヴァンクマイエルの作品のなかではまだストレートな方だと思います笑
対話の噛み合わなさが日常的な対話の方法である握手で表現されているからです。
『対話の可能性』という作品(「永遠の対話」「情熱的な対話」「不毛な対話」からなる作品)では、「情熱的な対話」はセックスなので日常的(?)と言えるかもしれませんが他の二つはお互いを飲み込んだり、口から出した道具でペアをつくるという感じなのでまあ日常的な対話の方法とは言えません笑
『シュヴァルツェヴァルト氏とエドガル氏の最後のトリック』でも『対話の可能性』でもそうなのですが、シュヴァンクマイエルが対話をモチーフにしている作品(『最後のトリック』の方は対話がモチーフではないかもしれませんが、あの露骨さな表現ならほぼ間違いないように思われます)では、結局対話は成り立たないのです。つまり、対話の不可能さに焦点が合わせられているということです。
この作品でもう一つ述べておきたいことはトリックにおいて無生物が生物のように振舞っている場面があることです。
シュヴァンクマイエルの作品では、無生物が生物のように振る舞う描写がよく出てきます。
たとえば『肉片の恋』。これはタイトルの通り肉片が愛し合う物語です(見てない人にはなんのこっちゃわからないかもしれませんが・・・笑)。オチがおもしろいので興味のある方は見てください笑。
『肉片の恋』では肉片が男女の人間として描かれています。日常的な肉片の扱い方は料理する、食べるといったものであり、肉片が愛し合う男女でセックスしていると見るのは完全に非日常的な意味づけです。
同様に『最後のトリック』でも椅子がまるでサーカスに出てくる動物のように走り回り、飛び跳ねて、フラフープの間を跳んでくぐったりしていました。
このようにシュヴァンクマイエルのアニメーション作品では日常的にただ物体として扱われる無生物を生物として動かし、非日常的な意味づけするのです。これによって私たちが考えもしなかった日常的な物体の非日常的なあり方を提示するのです。
このテーマについては『アッシャー家の崩壊』のところで別の視点から述べようと思います。

 

 

『エトセトラ』

 


この作品は他の作品に比べるとわかりやすい方だと思います(勝手な私見です・・・)。
「翼」「鞭」「家」の3編からなる物語ですが、すべてに共通するテーマは繰り返しです。3つともそれぞれのパート内で決まった運動をを繰り返します。
最後の「家」が終わるとき、映画自体をリプレイして繰り返そうとするのですが、フィルムが焼けて再生できない、という描写があります。
繰り返しから繰り返し不可能になる、繰り返しているのだけれども同じことに戻ってこれない、という構造です。
この構造も割とよくあるもので、『アッシャー家の崩壊』でも最初に出てきたカラスが最後に出てきて繰り返されるのかと思いきやカラスがバラバラになってしまう、という描写があります。繰り返せなさというのは彼のもつモチーフのひとつなのでしょう。
二つ目の「鞭」は人間が獣を鞭で服従させているのですが、鞭を振るうたびに人間が獣化して獣が人間化し、果てにはもともと獣だったのが人間になり、もともと人間であった獣を鞭で服従させる、というのが繰り返されていました。なんとなくシュールの典型みたいな感じで見やすかったです。あとなんらかの政治批判的なものも含まれているのかもしれません。

 

 

『庭園』

 


これは社会主義批判でしょうか?読みきれませんでした。詳しい人は解釈を教えて欲しいです。
手をつないだ人によって庭園が取り囲まれていて、その庭園の持ち主はそれを「生垣」と呼ぶのですが、ラストシーンで持ち主の友人(主人公?)がその「生垣」を構成する一人になってしまう、というものでした(ブッ飛んでいて僕の拙い文章では伝えきることはできなせん・・・)。
この作品はちょっとシュヴァンクマイエルのなかでは異端ではないでしょうか?
なぜなら交代が起きないからです。彼がものごとの関係を描くとき、たとえば『エトセトラ』や『対話の可能性』にみられるように服従させる側が服従する側に、食べる側が食べられる側に、という交代の運動を繰り返します。この作品では生垣とその持ち主の関係は交代せず固定的です。

 

 

『コストニツェ』

 


これは実際にある納骨堂の映像がナレーションと一緒に流されるだけです笑
骨を使って納骨堂全体を装飾しているのですが、悪趣味としか言いようがないですね笑
よその文化にケチつけるのはよくないですが・・・。
この作品は商業主義批判ですかね?
ナレーションで「骸骨に触ると罰金」がなんども繰り返され、「入場料が無駄にならないようによく見ておいてくださいね」と言っており、お金が強調されているんですよね。
他人の骸骨で作った趣味の悪い装飾で飾り立てたあげく、鎮魂のための納骨堂で入場料をとっているというのは商業主義に対する皮肉に見えました。
的外れかもしれませんが笑

 

 

『オトラントの城』

 


これは笑ってしまいました。
学者が「オトラントの城」という作品の本当の舞台はイタリアのオトラント城ではなく別の城なんだということを主張しているのですが、その証拠も説明も表情も胡散臭い笑
ラストシーンは笑います。

 

 

『アッシャー家の崩壊』

 


この作品のテーマは境界の曖昧さだと思います。とくに生物-無機物、生-死、物質-生命という対立的二項の境界を曖昧にする表現がたくさんあります。
もっともわかりやすいのは朗読される死のなかにある「無機物にも知覚はある」という言葉です。シュヴァンクマイエルは、これ以前もこれ以降も無生物に生物性を与える表現を使っていることから、おそらくこのテーゼを認めているのでしょう。日常的な物体を使って非日常を描き、物体に普段与えられている意味以外の意味を織り込み、それによって日常的なものの非日常的な側面が露呈する、このシュヴァンクマイエルの大きな特徴である表現方法は生物-無機物、生命-物質の境界が本来曖昧であるということを照らし出そうとした結果ではないでしょうか。
また、この作品には「早すぎた埋葬」というモチーフが使われています。これは私たちが当たり前と考えている生と死の境界すらも曖昧なものに帰してしまう表現です。
シュヴァンクマイエルはこれ以外にも境界の曖昧さをテーマにしたものがあります。わかりやすいのは『サヴァイヴィングライフ-夢は第二の人生-』という作品で、現実-夢の対立的二項の境界を曖昧に描いています。
この境界の曖昧さというのは僕が考えている哲学のテーマと近しいものがあり、結構参考になるんですよね。

 

おわりに

 


今回の記事ではシュヴァンクマイエルのもうひとつの特徴である擬似的な触覚に触れることはできませんでしたが、かなり満足なレビューがかけました。


もちろん映画本編も大満足でした。

 

またシュヴァンクマイエルの作品が上映されることがあればできるだけ時間を合わせて見に行きたいと思います!

 


では。

 

(他のアニメ映画についての記事はこちらから)

 

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